キリシマ屋

今のところ日記

忘却について

”忘れる”ということ神聖視してしまっていた。忘れられれば、幸せになれると思っていた。

 

そもそも忘却に対する理解度が低い。僕の中で”忘れる”は、100%、欠片も脳の中に残らないということだった。しかし、考えてみれば僕は洗面所に行くたびに「電動歯ブラシ用のヘッド買ってない!忘れてた!」と叫んでいる。いい加減学習してその場でスマホに駆け寄って打ち込めばいいのだが、それをするのがかったるい。その癖スマホやPCの前で「なんかあった気がする・・・」とイライラするのだ。(めんどくさいことこの上ないがせっかく今話題に出たのでメモを取った、これでそのうち新しいヘッドに差し替えられるだろう。)

 

この場合の「忘れた!」は、別に完全に事柄が消え去っているわけではない。

一度目「そろそろ歯ブラシヘッド替えなきゃいけないんじゃないのか?そのうち買うか」二度目「あぁ歯ブラシヘッド買おうと思ってたんだっけ・・・お金かかるの嫌だな・・・」n度目~最近「また忘れてた!!!!え???そろそろ買いたいが???なんでこの場で思い出すのに一生買えないんだ?」

 

歯ブラシをみて、毎回一度目の反応をするわけではない。歯ブラシが目に入ると”歯ブラシヘッドを買い替えようと思っていたこと”を思い出すのだ。

ここから察するに、人間の記憶は跡形もなくきれいさっぱり消えてしまうのではなく、必要のないときには意識にのぼらないように綺麗に仕舞われているのだ。

歯ブラシがトリガーとなって、歯ブラシヘッドの交換が思い出されるように、そのほかの記憶も何かきっかけがあって思い出すことが基本なのだろう。

 

僕は「いい加減忘れたい」とばかり思っていたが、忘れる=意識にのぼらないようにする=トリガーを見ないようにする、ということであればおそらくトリガーが多すぎる。仕方がないのだ。7年の生活の中で、自分の世界に接するものがたくさん紐づけられてしまった。

 

既に紐づけられている記憶のボックスを、空にすることは難しい。「インドカレー屋」と聞いて近所のインドカレー屋が思い起こされるようになっている身体で、「インドカレー屋ときいても近所のインドカレー屋を思い起こすことは絶対にしないでください」と言われても土台無理な話だ。絶対に考えてしまう。しかし、引っ越して数年たてばどうだろうか。新しい土地でインドカレー屋に足しげく通えば、当時の近所のインドカレー屋を思い出すことは少なくなるだろう。「インドカレー屋」ときいて思い出すのは、今の行きつけのインドカレー屋になるのだ。

 

僕は先日友人と話している中で、7/7が七夕でなくなっていることに気づいた。これは強烈な上書きで、なかなか起こりえることではない。しかしこれはとても夢のあることで、何十年も当たり前として生きてきた社会通念、文化、風習すら僕の脳は書き換えることができるということなのだ。

 

いつの何がトリガーとなって忘れたいことを思い出すのかはわからない。それを把握できるような分量ではないのだ。しかし、この先生きていけば、それもなるべく新しい世界で生きていけば、僕の「インドカレー屋」のセルに入っている店は追い出され、新しいインドカレー屋が鎮座するのだ。