キリシマ屋

今のところ日記

失恋について

僕の大好きなアーティストがサブスクに新たに楽曲を公開したことに際して。

全然元気じゃいられないな。びっくりするくらい好きだな・・・。

 

さて。失恋というものをついぞ経験したことが無い。”破綻”を一度だけ経験したが、あれをいわゆる失恋と呼ぶのはいささか無理があるだろう。

 

18、9の頃開演前に会場で流れる音楽の中で”どれだけ離れたなら忘れられるだろう”という歌詞が妙に頭に残り、それまでも聴いてきた曲だったのに、「この感覚をこの先知ることはできるのだろうか」とそこから時折考えてしまうようになった。

 

僕はこの曲は二人の同意で別れたものであろうと考えていて、納得したうえで別れたのにそれでもやっぱり忘れられない、という感情をうたったものかと思っている。

 

僕の経験した”破綻”は本当に憎んでも憎みきれない、相手も自分自身も憎くて仕方ないという傷が今も疼く情けない結果になっている。この先これを統合していくつもりだが・・・。

 

失恋というと、前述の「お互い納得したパターン」に加え、「一方的に振られたパターン」「振った側だが引きずっているパターン」「思いをつげられぬまま終わったパターン」などがイメージされる。つまり僕の思う失恋に、「は?!なんだてめぇふざけんな失せろ!」と言い捨てて去っていった恋は、含まれないのだ。いわゆる”失恋ソング”にそういうものはないと認識している。

 

今回僕たちが経験した別れは失恋ではない。僕たちは納得していない、もちろんいいオタクであろうと努めてはいたしそういう意味では納得して送り出した形で終わらせたかった、ただ心の根からそう思っているかどうかは個人差があろう。ずっとずっと、理解がある、そしてあなたを傷つけない存在であろうと無意識に行動していた。最後を迎えるにあたってファンレターを書く時でさえその態度がでてしまい、それに気づいて「あぁもう全部書いてしまおうこの愛を!!!!!!!悔しさを!!!!!!!!」と思ったものだが、結局書き上げたものにそこまでのすべての思いを載せられたかというと、決してそうではなかった。昨日も歩きながら「あぁ、これファンレターに書いてなかった書こう」と考えてから「もう書けないんだった・・・」と呆けてしまった。

 

限られた時間の中で、君が大切で僕たちは君を愛しているってあの手この手で伝えたつもりだ。できることはすべてやって、最後を迎えたつもりだ。君と別れてからも君の声を聴いているし、再生リストに入れていた一つが非公開になっていて大パニックに陥りながらもTwitterで検索して誤BANを知って笑ったし、受注販売のグッズを届くのを楽しみに待っているし、こうやって、結局何を言いたかったんだろうなと思っている。