キリシマ屋

今のところ日記

028

通勤のための運転の練習を少しだけしたあと、電車に乗ってランチを食べてエッセイの本を読み耽りもう疲れたなというタイミングでパフェを食べ、借りていた本をまとめて返却BOXに放り込んだあとそこそこ店をみたり立ち読みをしたり食料を買ったりして帰路についた。

 

カフェに長くいたため、その間使っていたイヤホンが本を返す頃には充電切れのアラートを鳴らしていた。店員と話したり立ち読みしたりするにはイヤホンがない方が都合がいいか、と思っていたが、なんとも、「はー、×にたい」とふと浮かび上がるもんだから音が無いとこんなことになっちゃうのかよとほとほと嫌になってしまった。別に僕の生活は希望に満ち溢れていて死にたく無いくせに。はい。ACTをしよう。えー思考は言葉とイメージの組み合わせにすぎない。

 

おい赤髪の人がいるぞ嬉しい!!!

 

派手髪が長髪の次に好き。みんな派手髪にしろ。

 

こういう時間、あの薄っぺらいPCがあればさぞ捗るんだろうな。スマホだと流石に限界がある。そりゃ年配のご老人よりは早いかも知らんが、自身のタイピング速度に比べたら牛歩。

ただでさえオタクは言いたいこと言うのに自分の口が追いつかないもんなのに、こんな、すまーーーとほんが追いつくわけねーだろよいよい。キーボードのタイピングは元々速かったが、そこへさらに職業訓練校での自主練の時間が合わさりかなり改善されたはずだ。まぁもちろん上には上があるわけだが………。

 

ひどいものを書く。ひどいものをたくさん書く。おそらく、たった一つの形態でしか自分は文章を書くことが出来ない。そうは言ってもビジネスメールは書けるしファンレターも書けるが…?

 

大昔受けた国語の授業で、評論の文章を要約しそれを一枚の紙に図を用いてまとめるというワークがあった。僕はそれの、出来がいい生徒として紹介された。あの時は何が書いてあるか分かったし、どうまとめればいいかも分かっていた。果たして。

今更そういうワークを形式ばってやる必要はないだろうが、そういうこともあったなと、思い出している。

 

最近は家より出先でジュリアや他者によるワークをこなすことが多くなっていて、というのも家にいるとただただ寝てしまうからだ。もちろん四六時中寝ているわけでは無いが、なんだかうまくいかない。寝たり起きたり、数時間が消えれば「あ〜…」とどうでもよくなってくる。

 

ここ数週間視界に入り続けた「嫌われる勇気」を結局読まなかった。今日カフェでカバンから出すつもりだったが結局、エッセイの書き方を読んでおしまいにしたのだ。読むべきは今じゃないのかもしれない。

 

自動書記という概念を知った。僕は、モーニング・ページはジュリアが生み出したのだと思っていた。まぁ細かいルールや注意を設けて自動書記をジュリアや私たちの目的に合わせてカスタマイズしたのは彼女だろう。

 

人はどれほどに霊性を大切にしているのだろうか。僕は以前から宗教に興味を持っていて、まぁ宗教=霊性と直結するものではないにしろなんらかの近しいものと感じてここで挙げているのだが、人に儀式は必要であると考えている。我々が思う信仰心、神に忠実にあるべしというものは、おそらく宗教ではない。

 

ジュリアに出会ってからというもの、こと霊性を意識するようになったが、正直なところまだ突き詰められるなと感じている。もっと自分の中で儀式を重視できるし、ルーティンの構築はそれに直結するものだと感じている。

 

帰りに図書館に寄り、本当は文学も併せて借りるつもりだったのだが思ったよりも長居してしまったので今回はあきらめた。大きい図書館ではないのだが、まだ読んでいなくて読みたい本は今のところあるのでしばらく通おうかと思う。今回は前々から気にはしていたが大きい図書館で貸し出し中が続いていて借りられなかった自己啓発本が普通に置いてあったのでそれと、あとはなんか哲学の本を借りた。

 

若い読者のための哲学史

ナイジェル・ウォーバートン氏の本だ。

 

 

 

この手の本は借りても読まないことが多い。今回もそうなるだろうか。

基本的に文学部にひっくるめられるような学問に絡むもの(文学・哲学・歴史・宗教・芸術・心理学)あたり全般に薄っすら興味を抱いており、たびたび気まぐれにとっつきやすそうな本を借りてみるものの、借りてから一度も開かず返却口に投げ込むことが常である。

と言いつつせっかく今書名を確認するために手元に持ってきたのでついでに開いてみた。「Chapter1 質問し続けた男」の書き出しはこうだ。

およそ2400年前、質問をしすぎたせいで死刑に処せられた男がアテナイアテネ)にいた。

正直なところ、これは読めるかもしれない。

 

大抵本を借りるときは調べずに目的もなく訪れることが多いため、どれを借りるかはその場でちらっと読んで決める。冒頭数行と中身を2、3か所1~数行読んでみてスッと頭に入ってくるかで判断する。

今日は急いでいたこともあり冒頭などはチェックせず、中身をえいやと開いて入ってきた文がさほど読みづらくない、肩ひじ張らない文章だったので借りてみた次第だ。

 

得てしてこの手の初心者向けの○○史は読みづらいものだ。個人の感想だが、ついぞ読めたことが無い。おそらくは、これを入口にしてはいけないのだ。例えば日本史であれば、池田屋事件が書いてあるページだけを読んでみるだの、西洋音楽史であればバッハについての記述だけ読んでみるだの(おそらくどの初心者本をとっても池田屋事件より記述は長い)、そういうとっかかりをもって読み始めるべきであろう。そうでなければ、講義などですでに大まかに流れを知っている状態で読むのがふさわしいと考える。知らないことしか書いてないものを読むのは骨が折れるものだ。単語帳も7割~8割既知の単語であるものを買うのが学習しやすいというではないか。

 

どうも、「まずは大まかな流れをつかもう!」という姿勢が自分には合っていないのかもしれない。大まかな流れとは、何なのだろうか。とはいえ未知の領域を知ろうとするとき、一体何から読めばいいのかはわかるまい。学問としてのそれらに興味はある。しかし、本腰を入れて学んでやるぜというほどでもないのだ。なんとなく「ちょっと知ってみたいなあ」という感情がずっと薄っすらあるだけなのだ。

 

また、不親切なことに初心者向けの装丁で釣るさっぱり訳の分からない本も出版されている。これは何を以てして初心者向けとするかの問題もあるだろうが、そもそも僕は初心者向け本に、「広く浅い知識を体系化して、なおかつスッと入ってくるように書いてくれている」ことを求めているのだろう。そんなものがあったら人は苦労しないのではないか?それがあったら必ず教科書に指定されるはずだ。書店や図書館、古本屋で違う本が立ち並んでいる現状を見るにそんな本は存在しない。

 

ところで壱百万点原サロメが誰なのかを予想したいので切り上げる。