キリシマ屋

今のところ日記

自由について

僕は自由になった。自由なつもりで生きていたが、なんと再び自由が訪れた。何者かを好きということは多かれ少なかれ制約を生むということで、それを制約と意識し始めれば離れた方がいいのだ。

 

僕は、制約だと思っていなかった。でもあの子は旅に出た。制約だと思っていなかった縛りから解放された僕は、本当に自由になった。

 

あの子がいたから、自身の価値観を見つめなおすことができて、「あぁ、欲しいものが分かっていれば、他のものはいらないのだな」と悟ることができた。きっとこれらは禅をはじめとして各所で言われていることなのだろうが、それを身をもって知れる人生を過ごせることは、そう無いんじゃなかろうか。

 

空白を苦しみと思わない。ただただ泣くばかりでない。たしかに、「なんで・・・」と思うことはまだある。しかし、この痛みすら愛おしく思う時間があるのも事実だ。愛していた。狂いそうだった。狂っていたかもしれない。もっと愛せたかもしれない。最後は、渡せる愛を全て渡したつもりだ。

 

遠くから見るのなんてやめて、ぶつかっていく方がいいんだな、と思った。もちろん相手を故意に傷つけることは絶対にあってはならないが、僕たちが愛を正しく誠実に伝えたら、そのあとのことは向こうの都合だ。「これを言ったら重荷になるんじゃないだろうか」「これは言わない方がいいんじゃないんだろうか」とたくさん考えたが、結局『嫌われたくない』だけだったのかもしれない。

 

僕たちはみな等しく自由で、すべて「己の選んだ道だ」と自信をもって言えたらきっと満たされた人生を送ることができる。「家族がいるから」「世間体があるから」「○○を持っていないから」など、言い訳に使ってしまうのは健全ではない、というのはさすがに世界を分かっていなさすぎるだろうか。

 

僕はここしばらくやりたいことが積み重なって捌けなくなっていて、一体全体どうすべきなんだとイライラを募らせていたのだが、ようやっと自身の指針を書き起こすことができた。無論これが完成形というわけではなく、適宜Revieseが必要だ。書き起こすだけでずいぶんと楽になった。

 

何の指標もなしにいきなり書いたわけではない。1年ほど前からGTDを取り入れたり失敗したり、価値観の見直しにつながるようなワークをジュリアに従って試したり、本を読んだりブログを読んだりポートフォリオじみたものを作ってみたり応募してみたりと、いろいろなことを実践していた。それらを通じて学びを得た状態で今回、主に自身のHeightとして扱っていた項目を編集しなおし、より強固なものとしたのだ。

 

ここはまだ出発点で、この先がある。あの子が旅に出たのなら、僕が旅に出てもいいのだ。あの子も僕たちも、だれも囚われやしない。